「ハイセイコーは怪物と呼ばれていたけど、私はその馬を化け物と呼んでいた」と当時主戦を組んでいた宮浦正行騎手(現調教師)が語ったのは、今からちょうど40年前の1978年の東京ダービーを制したハツシバオーだ。
ハツシバオーは1975年3月11日、北海道新冠の越湖吉春牧場で生まれた。父は天皇賞(春)やスプリンターズSなど距離を問わず活躍したタケシバオー、母は中央で2勝を挙げたハツイチコ。 大井の大山末治厩舎に入厩すると1977年8月14日、山口勲騎手を背にデビューする。新馬戦は勝利したものの2戦目2着、3戦目3着という成績だった。4戦目でケガをした山口騎手の代打という形で騎乗することになったのが、以後ずっとコンビを組むこととなった宮浦騎手。
「最初に調教に乗った時はゴツゴツとしていてそんなに走る感じはしなかった。でもレースに行ったらゲートを出た時にロケットみたいなスピードで驚いたよ。上がってきた時に他の馬とはケタが違うと思った」と初めて跨ったときのことを振り返る。
馬体は当時としてはかなり大きい500キロほどで、気性も荒く力もあって体を持て余すため、年2回あった休みの日にも休ませられなかったという。
京浜盃の初代王者となり5連勝で黒潮盃に向かう予定だったが、4月に開催されていた黒潮盃の追い切りで向正からバカをついてUターンして2コーナーまで戻ってしまうアクシデントがあり出走を回避せざるを得なくなった。このこともあって羽田盃では大山師から「バカをついてダービーに出走できなくなってしまっては困る。負けてもいいから内ラチにピッタリとつけてくれ」と指示があったという。
そこで直線を向くあたりでも内でジーっと待ち、前が開くタイミングを見計らってゴーサインを出すとそこから力の違う走りを見せつけて勝利したのだ。
そして迎えた1978年6月13日の第24回東京ダービー。クラシック1冠目を制したハツシバオーの下馬評は高く、単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されていた。
大山師から「バカをついてもいいから行っちゃってくれ」と言われていた宮浦騎手はスタートすると2番手からレースを運び、馬が走りたがったことから前にいた馬を交わして先頭に立った。3コーナーではバカをつかれたら…と思い構えるが、同時にそれさえなければ勝てると確信する。結局気性の悪さをだすかもしれないという心配は杞憂に終わり、直線を向くと後続馬との差を広げ、2着のタイガームサシに6馬身の差をつけて圧勝しダービー馬の栄冠を手にした。
25歳でダービージョッキーとなった宮浦騎手だが、「ダービーを勝つ!」というよりも「とにかく気の悪さを出さないようにしなくては」という意識でいたため、ダービーを勝ったと実感が湧いたのは数年も経った後だったという。
その後もハツシバオーは東京王冠賞を勝ち、ヒカルタカイ(1967年)、ゴールデンリボー(1975年)に続く史上3頭目の南関東3冠馬となり、その年の東京大賞典までも制し競馬史にその名を刻んだ。
勝馬 豊岡 加奈子