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逃げて強い馬というと、皆さんはどの馬を想像するだろうか?
サイレンススズカ、ツインターボなど様々な逃げ馬がレースを盛り上げてきた。
そして今から36年前にも帝王賞に紅一点で出走し、見事な逃げ切り勝ちを収めた馬がいた。
それがコーナンルビーだ。

コーナンルビーは1980年の秋、当時山形県にあった上山競馬場から大井競馬場に転入した。
最初の印象について「470キロで当時の牝馬としては大きかったが、来た時はボーボーの冬毛にゴテゴテとした歩様。お世辞にも見栄えがする馬体ではなかった」とコンビを組むこととなった堀千亜樹騎手(現調教師)は語ったが、同時に「走ると追ってからの反応がすごくて一歩一歩が力強い走りで、まるで別の馬のようだった。牡馬にも負けない勝負根性も備えていた」という。

クラシック戦線に名乗りを挙げた1981年、まずは紅一点で京浜盃に出走する。
「前に行ってナンボという馬だから、毎回何が何でも行こうと思って乗っていた」という堀騎手の策通り、11頭立てで外目の9番枠だったがスタートを切ると一気にハナに立った。3コーナーに入ってペースが上がり他の馬に動きがあろうともコーナンルビーの逃げは変わらず、4コーナーから直線に入っても逃げ脚は衰えることなく勝った。
当時第4回と歴史の浅かった京浜盃だが、その後牝馬が優勝したのは1989年のロジータ、2011年のクラーベセクレタのみということからもそのすごさがわかるだろう。

牡馬相手に勝利したコーナンルビーは桜花賞に駒を進め、単勝1.6倍の支持を集める。この時浦和のマイルで不利な10番枠を引くが、それをものともせず外から前の馬に並びかけ、2コーナーではハナを奪うとそのまま逃げ切った。
そして羽田盃でも再びの逃げ切り勝ちで、22年ぶりの牝馬優勝を果たす。

クラシック戦線を賑わせたコーナンルビーだったが、翌1982年に出走した帝王賞(当時は距離2800m、地方競馬所属馬のみ出走可能)では前年の覇者アズマキングに注目が集まり、コーナンルビーは単勝オッズ12.8倍の4番人気に甘んじる。
「正直この時状態はあまり良くなかった。だけどメンバーを見た時にそんなに他に行く馬がいなくてスローペースになるだろうから、逃げたらもしかしたら勝てるかもしれないと思っていた」という堀騎手の考えが現実となる。
予定通りハナを切るとスローペースの中レースは進む。「道中すぐ後ろにアズマキングがいるのはわかっていた」というが動じることはなかった。最後の直線を向いてアズマキングが迫ってきて2頭の叩き合いになったが、捕らえられることなく勝利したのだ。まさに作戦勝ちだった。

「コーナンルビーが現役だったのはもうだいぶ昔だけど、2018年になった今でも上山時代に管理していた調教師の先生とはコーナンルビーの話をするよ」堀騎手は嬉しそうに語ってくれた。

勝馬 豊岡 加奈子